「ホントに好きなの?」

「評価はするけど好みではない」というフレーズを僕も使うが、自分でも曖昧なところがある。いやむしろ曖昧にするための表現なのかもしれないが、評価と趣味は果たして分離できるものなのか、ということである。「あの子は美人だ、しかし嫌いな顔だ」これは日常会話だが、こういう考え方は存在するのかどうか。つまり「美人だ」とは評価であり、「嫌いな顔だ」は趣味である。ズバリ有り得るだろう。しかしその「美人だ」とハジメに断りを入れるところに、僕は「逃げ」があるように思う。“あなたはあの人の魅力も解らないの?”からの逃げ。尤も「美人だ」とか「綺麗だ」とか「上手い」とかの評価は客観性が高いので、そこに多少趣味が入ろうとも大方分離はできていると思う。

ところが「あの子はカワイイ、でも嫌いだ」は、ちとオカシイ。「美人だ」と違って、「カワイイ」というのは主観的評価。どういうものをカワイイと呼ぶのかは人それぞれだが、何にしろその感情が基準値を超えているのは確かだ。それは必ず好意的であると思う。「美味しいけどキライ」こんなことは有り得るのだろうか。僕は甘いものやフルーツが大嫌いなのだが、これらを旨いと思ったことは一度もない。完全に、評価=趣味の世界なのである。でもそれが歌や芝居になると、はじめの「美人」の話に戻る。「レミオロメンは上手いが好みでなく、ゴーイングアンダーグラウンドは下手だが好み」ということが事実ある。くどいがこれは評価と趣味のセパレートによるもので、評価の項目が上手下手でなくて“スバラシイ”とかなら成立しない。嫌いであると同時に、または嫌いになった瞬間に、“何がスバラシイんだあんなモン”とこうなる。…何が好きか判らなくなってきた。